明智小五郎年代記


明智小五郎登場!

その時、先ほどちょっと名前の出た明智小五郎が、いつもの荒い棒縞の浴衣を着て、変に肩を振る歩き方で、窓のそとを通りかかった。彼は私に気づくと会釈をして中へはいってきたが、冷しコーヒーを命じておいて、私と同じように窓の方を向いて、私の隣に腰かけた。そして、私が一つのところを見詰めているのに気づくと、彼はその私の視線をたどって、同じ向こうの古本屋をながめた。しかし、不思議なことには、彼もまた、いかにも興味ありげに、少しも眼をそらさないで、その方を凝視し出したのである。

「D坂の殺人事件」 大正14年1月「新青年」


主人公の私がD坂の白梅軒という喫茶店で知り合った、探偵小説好きの変り者として、明智小五郎は紹介される。白梅軒から二人して見詰めていた向いの古本屋で発生した美人細君殺しが、明智のデビュー事件となる。


明智は講釈師の神田伯竜に似ている。

彼がどういう経歴の男で、何によって衣食し、何を目的にこの人生を送っているのか、というようなことは一切わからぬけれど、彼がこれという職業を持たぬ一種の遊民であることは確かだ。しいていえば学究であろうか。だが、学究にしてもよほど風変りな学究だ。いつか彼が「僕は人間を研究しているんですよ」と言ったことがあるが、そのとき私には、それが何を意味するのかわからなかった。ただ、わかっているのは、彼が犯罪や探偵について、なみなみならぬ興味と、おそるべき豊富な知識を持っていることだ。

「D坂の殺人事件」 大正14年1月「新青年」


明智は煙草屋の二階の四畳半に本に囲まれて住んでいる。年は二十五歳を越してはいない。痩せ型で、髪の毛が長くのびモジャモジャともつれ合っている。そして人と話すときには指で髪の毛をひっ掻き廻す癖がある。服装などは一向に構わず、いつも木綿の着物によれよれの兵児帯を締めている。 その顔つきは、片腕の不自由な講釈師の神田伯竜に似ている。いわゆる好男子ではないが、どことなく愛嬌のあるものとされている。


明智小五郎、心理試験で犯人逮捕

それは心理試験が行なわれた翌日のことであった。笠森判事が、自宅の書斎で、試験の結果を書きとめた書類を前にして、小首を傾けているところへ、明智小五郎の名刺が通じられた。「D坂の殺人事件」を読んだ人は、この明智小五郎がどんな男かということを幾分ご存じであろう。彼はその後、しばしば困難な犯罪事件に関係して、その珍らしい才能を現わし、専門家たちはもちろん、一般の世間からも、もう立派に認められていた。笠森氏とも、ある事件から心易くなったのであった。女中の案内につれて、判事の書斎に、明智のニコニコした顔が現われた。このお話は「D坂の殺人事件」から数年後のことで、彼ももう昔の書生ではなくなっていた。

「心理試験」 大正14年2月「新青年」


明智小五郎、暗号解読に素晴らしい手腕

私はご承知の煙草屋へ車を飛ばしました。そして、いろいろの書物を山と積み上げた例の二階の四畳半で明智に会いました。都合のよかったことには、彼は数日来「黒手組」についてあらゆる材料を蒐集し、ちょうど得意の推理を組み立てつつあるところでした。しかも彼の口ぶりではどうやら何か端緒をつかんでいる様子なのです。で、私が伯父のことを話しますと、そういう実例にぶつかるのは願ってもないことだというわけで、早速承知してくれ、時を移さず連れだって伯父の家へ帰ることができました。

「黒手組」 大正14年3月「新青年」


ここに登場する私は、「D坂の殺人事件」主人公の私と同一人物で、事件以来一年が経過したことになっています。あいかわらず明智は煙草屋の二階の四畳半に本に囲まれて住んでいます。年齢も二十五才くらいのはずです。


明智、実業家平田氏を救う

とっさの場合、判断をくだす暇もなく、平田氏はただあっけにとられて、青年の顔とその電報とを見くらべるばかりであった。 「実は僕はこんな事を探して歩いている男なんですよ。この世の中の隅々から、何か秘密な出来事、奇怪な事件を見つけ出しては、それを解いて行くのが僕の道楽なんです」 青年はニコニコしながら、さも無造作に説明するのだった。

「幽霊」 大正14年5月「新青年」


明智は海の近くの避寒地で、偶然であった金持ち平田の脅迫事件の謎を解く。脅迫されている平田自身も相当うさんくさいが、明智に出会ったことが幸いした。ここに登場する明智は、とにかく謎を解くのが趣味なのだ。


猟奇者、郷田三郎を触発

明智を知ってから、二、三カ月というものは、三郎は殆どこの世の味気なさを忘れたかに見えました。彼はさまざまの犯罪に関する書物を買い込んで、毎日毎日それに読み耽るのでした。それらの書物の中には、ポーだとかホフマンだとか、或いはガボリオだとか、そのほかいろいろの探偵小説なども混じっていました。「ああ、世の中には、まだこんなに面白いことがあったのか」彼は書物の最終ページをとじるごとに、ホッとため息をつきながら、そう思うのでした。そして、できることなら、自分も、それらの犯罪物語の主人公のような、目ざましい、けばけばしい遊戯をやってみたいものだと、大それたことまで考えるようになりました。

「屋根裏の散歩者」 大正14年8月「新青年」


明智が語る様々な犯罪談義に、生まれながらの犯罪者としての性を大いに刺激された郷田三郎は、犯罪のまね事をするために魔窟浅草公園に潜り込みます。そしてそれでも飽き足りなくなって、とうとうたどり着いたのが、下宿屋「東栄館」の屋根裏散歩の楽しみでした。


明智のような北見小五郎登場

それからというもの、広介はどこにいても、北見小五郎という文学者の目を感じました。花ぞのの花の中から、湯の池の湯気の向こうから、機械の国ではシリンダーの陰から、彫像の国では群像の隙間から、森の中の大樹の木陰から、彼はいつでも広介の一挙一動を見つめているように思われました。 そしてある日のこと、かの島の中央の大円柱の陰で、広介はあまりのことに、ついにその男をとらえたのでした。 「君は北見小五郎とかいったね。僕が行くところには、いつでも君がいるというのは、少しばかりおかしいように思うのだが」

「パノラマ島奇談」 大正15年10月「新青年」


明智を連想させるようなまぎらわしい名前の北見小五郎は、パノラマ島に雇われた文学者というふれこみで登場します。物語の最後の謎解きのシーンは、いかにも明智という論理を展開します。 しかし、かれはあくまでも北見小五郎なのでしょう。江戸川乱歩自身もまだこの頃は明智をそんなに重要なキャラクターとしては扱っていなかったように感じます。


上海帰りの明智は赤坂菊水旅館に滞在

上海から帰って以来約半年のあいだ、素人探偵明智小五郎は無為に苦しんでいた。もう探偵趣味にもあきあきしたなどと言いながら、その実は、何もしないで宿屋の一と間にごろごろしているのは退屈で仕様がなかった。ちょうどそこへ、彼の貧窮時代同じ下宿にいた知合いの小林紋三が究竟な事件を持ち込んできた。山野夫人の話を聞いているうちに、彼は多年の慣れで、これはちょっと面白そうな事件だと直感した。そしていつの間にか、長く伸ばした髪の毛に指を突込んでかき廻す癖をはじめていた。

「一寸法師」 大正15年12月「東京朝日新聞」


この「一寸法師」は乱歩にとって初の新聞連載で、いわばメジャーデビューにあたります。 明智小五郎もこの作品以降、乱歩作品の看板役者として颯爽たる活躍を始めます。怪奇趣味と謎解きと冒険、この魅力的なスタイルは、一般読者に大好評を博しました。しかし乱歩自身はこの作品の“変格ぶり”がはなはだ不満で、このあと第1回目の休筆をしてしまいます。


ダンディ明智の登場

詰襟の麻の白服に白靴、まっ白なヘルメット帽、見慣れぬ型のステッキ、帽子の下からは鼻の高い日にやけた顔、指には一寸も幅のある大きな異国風の指環、それに大豆ほどの石がキラキラと光っている。背が高くて足の格好がよいので、ちょっと見るとアフリカか印度の植民地で見る英国紳士のようでもあるし、また欧洲に住みなれた印度紳士といった感じもするが、その実日本人であることは間違いない。今しがた通りがかりの郵便配達に「この家は有名な犯罪学者の畔柳さんのお住いですか」と、ハッキリ日本語で尋ねたほどだから。

「蜘蛛男」 昭和4年8月「講談倶楽部」


明智は「一寸法師」の事件の後、シナから印度へ旅に出て、このシーンで3年ぶりに帰国しました。いわば伝説のヒーローとして再登場したのです。以前の講釈師神田伯竜に似た、棒縞の浴衣を着て髪を掻きむしる金田一耕助型のヤボ探偵ではありません。天知茂でお馴染みの、そして怪人二十面相の宿敵であるカッコイイ正義の味方明智小五郎のスタイルが創造されました。


赤井さんに化けた明智、事件の謎を解く

では僕はこれでお別れします。君はひとりで静かに考える時間が必要です。ただお別れする前に僕の本名を申し上げておきましょう。僕はね、君が日頃軽蔑していたあの明智小五郎なのです。お父さんの御依頼を受けて陸軍の或る秘密な盗難事件を調べるために、変名でお宅へ出入りしていたのです。あなたは明智小五郎は理屈っぽいばかりだとおっしゃった。だが、その私でも、小説家の空想よりは実際的だということがおわかりになりましたか‥‥ではさようなら

「何者」 昭和4年11月「時事新報」


乱歩には珍しい(?)本格ものの中編であるこの作品に登場する明智は、前作「一寸法師」で颯爽と登場した垢抜けた明智ではなく、旧スタイルのままのような感じです。乱歩自身も余り思い入れなく明智を描いていて、かえって理屈っぽいなどと貶すようなことをいっています。そこで最後に明智は主人公の結城弘一に向かって、でも小説家よりはましだろうなどと、強烈な皮肉をかましています。


にせ明智、赤松警視総監を誘拐

「明智君、これは一体どうしたことだ。君はいつの間に僕の敵になったのだ」
「ハハハハハハ、私が明智小五郎に見えますかね。もっと眼をあけてごらんなさい。ほらね」
明智が顔をモグモグやって見せる。 「アッ、き、貴様は一体、何者だっ」
明智は左手でポケットから大型の麻のハンカチを取り出して、総監の眼の前で、ヒラヒラ振って見せた。驚くべし、そのハンカチの片隅には、見覚えのある無気味な白コウモリの紋章。

「猟奇の果」 昭和5年1月「文芸倶楽部」


この「猟奇の果」は、寸分たがわぬ分身が自分の知らないところで徘徊する、猟奇的で不思議な前半と、「白蝙蝠」と題された、明智小五郎が登場する冒険活劇風の後半からなる二重人格作品です。上記の引用の部分はもちろん後半で、明智そっくりの怪人が、警視総監を誘拐するという息詰まるシーンです。一寸法師で明智人気を獲得した乱歩は、もう明智小五郎をVIPとして待遇しています。この「猟奇の果」でも、前半をあまりにも不思議一杯、魅力的に書き出してしまい、収拾がつかなくなって、明智に救いを求めたような感じがしなくもありません。


生涯の伴侶、文代さんと出会う

「まず第一にあたしを縛ってください。あたしは極悪人の子です。一味のものです」
娘は明智のからだをすりつけるようにして、強い調子でささやく。
「どうして? 君はもうわれわれの味方じゃないか」
「でも縛ってください。そうでなければ、あたしは大きな声を立てます。親を売った娘は縛られるのが当たり前です」
可哀そうな文代は、もう泣きだしそうな声だ。明智にも二郎にも、彼女の心持がよくわかった。ともかくも、一応縛ってやるのがむしろ慈悲である。二人は彼女がいうがままに、明智の細い帯を解いて、ホールの柱へ、型ばかりに文代を縛りつけた。

「魔術師」 昭和5年7月「講談倶楽部」


人気大衆誌「講談倶楽部」に連載された前作「蜘蛛男」が大ヒットとなり、乱歩はさらにエンターテインメントとして徹底した新作「魔術師」の連載を開始しました。すっかり乱歩作品の顔となった明智小五郎は此の作品ではロマンスも演じるのです。その上、舞台設定も「蜘蛛男」事件解決からたった10日ばかり後という世界の連続性をとっています。この後も明智を中心においた乱歩ワールドは、ますます華麗にそしてリアリティ満点に展開されていきます。 此の作品で文代さんは、魔術師と呼ばれる賊の娘として登場します。そして明智と出会い、敵味方に別れて大冒険を演じ、最後には明智を助けるパートナーとなります。そしてそのあとはどうなるのでしょうか? それは次作「吸血鬼」をお読みください。


小林少年登場 !!

三谷がドアをたたくと、十五、六歳のリンゴのようなほおをしたつめえり服の少年が取りつぎに出た。名探偵の小さいお弟子である。
明智小五郎をよく知っている読者諸君にも、この少年は初のお目見えであるが、そのほかに、この探偵事務所にはもうひとり、妙な助手がふえていた。文代さんという美しい娘だ。
この美人探偵助手が、どうしてここへ来ることになったか、彼女と明智とがどんなふうの間がらであるか、それは『魔術師』と題する探偵物語にくわしくしるされているのだが、三谷は、かねてうわさを聞いていたので、ひと目でこれがしろうと探偵の有名な恋人だなと、うなずくことができた。

「吸血鬼」 昭和5年9月「報知新聞」


乱歩ファンなら誰でも知っている、元祖少年名探偵小林君の初登場はこの「吸血鬼」でした。ただ、小林芳雄というフルネームで登場するのは「暗黒星」が初めだと記憶しています。この小林君は、このあと乱歩の青年物や少年物を通じてレギュラーで登場します。ただ、不思議なことに、明智探偵はだんだん歳をとっていき、文代さんは病気になって地方の病院に入ったりしてしまうのですが、なぜか小林君だけはいつまでもリンゴのほおでつめえり服です。
この時期、明智小五郎はお茶の水の「開花アパート」に住んでいます。二階表側の三室を借り受け、そこを住まいと探偵事務所に使用していました。


明智小五郎ついに結婚

明智小五郎は、事件の殊勲者として、例によって新聞に書きたてられた。明智びいきの読者たちは、その記事の最後に、近々名探偵とその恋人文代さんとが、結婚式をあげる旨しるされているのを発見して、好意の微笑を禁じえなかった。同時に、新婚の明智小五郎が、おそらく当分のあいだは、血なまぐさい探偵事件に手をそめないであろうことを、遺憾に思わないではいられなかった。

「吸血鬼」 昭和5年9月「報知新聞」


「吸血鬼」事件の大団円のあと、作品の最終段落で乱歩はこう綴っています。この言葉どおり明智は、「黒蜥蜴」までお休みとなります。(同時期に平行して連載されていた「黄金仮面」は別として)
乱歩は、「吸血鬼」以降、明智の登場しない作品群、名作短編「目羅博士」やリレー小説「江川蘭子」そしてエログロの極み「盲獣」などを発表していきます。今にして思えば実に彼らしい活動を続けるのですが、乱歩はこれらの作品にはなはだ不満で結果スランプに陥り、昭和7年に2度めの休筆に入ります。


明智小五郎とアルセーヌ・ルパンが対決

「アハハハ‥‥日本の名探偵明智小五郎君、よくもやったね。いや、感心感心。アルセーヌ・ルパン、生涯覚えておくよ」
「で、きみは白状したわけだね」
巨人と怪人とは、いまや対等の位置に立った。

「黄金仮面」 昭和5年9月〜6年10月「キング」


ついにルパンが登場する。これは決して少年物ではない。ホームズとルパンが戦うんだから、明智とルパンが戦って当然、なにが悪いかというところでありましょう。ここに登場するルパンのキャラクターからあの怪人二十面相が生まれたような気がします。乱歩初の少年物「怪人二十面相」が世に出るのが昭和11年ですから、まだずいぶん先のことだったのですが。
乱歩はこのあとしばらく明智物を書かなくなります。ルパンと戦うという荒技の後、明智の扱いに少々困ったのではないでようか。


黒蜥蜴、明智に恋をする

「明智さん。もうお別れです‥‥お別れに、たった一つのお願いを聞いてくださいません‥‥?くちびるを、あなたのくちびるを‥‥」
黒衣婦人の四肢はもう痙攣を始めていた。これが最期だ。女賊とはいえ、この可憐な最期の願いをしりぞける気にはなれなかった。明智は無言のまま、黒蜥蜴のもう冷たくなった額にそっとくちびるをつけた。彼を殺そうとした殺人鬼の額に、いまわの口づけをした。女賊の顔に、心からの微笑が浮かんだ。そして、その微笑が消えやらぬまま、彼女はもう動かなくなっていた。

「黒蜥蜴」 昭和9年1月〜12月「日の出」


「黒蜥蜴」といえば三島由紀夫が戯曲化してとくに有名な乱歩作品である。当然、緑川夫人(黒蜥蜴)を演じるのは美輪明宏意外考えられない。私の前回の上演の際には青山劇場で観ました。ちなみに明智小五郎役は名高達男、結構いい感じでした。
最期の口づけが唇ではなく額だったこと、「こいつ確か毒飲んだんだよなあ。唇は危ないよな」と考えた明智は、さすがに名探偵。冷静です。


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