*不忍池*

SHINOBAZU NO IKE

「ああ、月が出ましたね」
青年の言葉は、ともすれば急激な飛躍をした。ふと、こいつ気ちがいではないか疑われるほどであった。
「きょうは十四日でしたかしら。ほとんど満月ですね。降りそそぐような月光というのは、これでしょうね。月の光って、なんて変なものでしょう。月光が妖術を使うという言葉を、どっかで読みましたが、ほんとうですね。同じ景色が、昼間とはまるで違ってみえるではありませんか。あなたの顔だって、そうですよ。さっき、サルの檻の前に立っていらっしゃったあなたとは、すっかり別の人に見えますよ」
そう言って、ジロジロ顔を眺められると、私も変になって、相手の顔の、隈になった両眼が、黒ずんだ唇が、何かしら妙な怖いものに見え出したものだ。
「月といえば、鏡に縁がありますね。水月という言葉や、『月が鏡となればよい』という文句ができてきたのは、月と鏡と、どこか、共通点がある証拠ですよ。ごらんなさい、この景色を」
彼が指さす眼下には、いぶし銀のようにかすんだ、昼間の二倍の広さに見える不忍池がひろがっていた。

「目羅博士」 昭和6年4月「文芸倶楽部」増刊号


上野動物園の猿の檻の前で話し掛けてきた不思議な青年は、月光に照らされた不忍池を前にして、世にも不思議な物語を始めます。この「目羅博士」は乱歩作品の中では「押絵と旅する男」や「火星の運河」と同様に幻想的な作品で、とてもファンが多いようです。この作品で乱歩は、閉園間近の夕暮れせまる動物園から月下の不忍池へと続く、上野公園の夜のベストコースを案内してくれます。
ところで不忍池は琵琶湖の見立てで、竹生島のかわりに中の島を置き、弁天堂を祀りました。現在この弁天堂の周辺は、不思議なほど沢山の石碑が立ち並んでいます。めがね碑、かなりや碑、長唄碑、ふぐ供養碑、スッポン感謝塔等など大小30以上もあるでしょうか。月光の下でこれらの碑が果たしてどんなふうに見えるのか興味のある人はぜひ、夜の不忍池を散策してみて下さい。




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