*厩 橋*

UMAYABASHI

彼はそのころ、毎晩のように黒の背広、黒の鳥打帽という、忍術使いのようないでたちで、隅田川の橋の上へ出かけて行った。東京名所にかぞえられるそれらの橋の上には、設計者の好みの構図によって、巨大な鉄骨が美しい人工の虹を描いていた。黒装束の素人探偵は深夜十二時前後に、橋の袂にタクシーを乗り捨て、人通りのとだえたころを見すまして、その人工の虹の鉄骨の上によじのぼるのであった。 闇のなかの幅の広い鉄骨は、黒装束のひとりの人間を充分下界から隠すことができた。彼はその冷え冷えとした大鉄骨の上に身を横たえ、まるで鉄骨の一部分になってしまったかのように、身動きもしないで、二時間、三時間、闇の中に眼をみはり耳をすまして、その下を通りすがり、その下に立ちどまる人々を観察するのであった。

「幽鬼の塔」 昭和14年4月〜15年3月「日の出」(第8巻4〜第9巻3号)


「幽鬼の塔」は後半こそ静岡県のS市に作品の舞台を移してしまいますが、前半は下町中をまるで名所巡りするように次々と舞台を変えながら進行していきます。その冒頭が厩橋のシーン、ここで主人公の素人探偵河津三郎がカラのスーツケースを隅田川に捨てた男を厩橋の鉄骨のうえから覗き見したことから、奇妙な事件がスタートするのです。 ところで隅田川の特徴といえば、「橋のギャラリー」といわれるくらい様々な意匠の橋が短い間隔で沢山架かっている点です。そもそも橋の種類には、道路がどの部分に位置するかによって、上路橋、中路橋、下路橋の種類があるそうで、隅田川で言うと上路橋は吾妻橋や蔵前橋、中路橋と上路橋を組み合わせたのが駒形橋、そして下路橋の代表が厩橋ということになります。これらの橋をもっと研究してみたい人は是非とも、隅田川の水上バスに乗ってみてください。




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