*精養軒*

SEIYOUKEN

「あなた、おひるまだでしょうね。わたしもそうなのよ。でも、しばらく散歩をつきあってくださらないこと。そのかわり、お話をしてしまったら精養軒をおごりますわ。少し人に聞かれちゃあつごうの悪いお話なんですから」どういう話があるのか、夫人は非常に大事をとっているように見えた。しかし、紋三は夫人の話が何であろうと、彼女と肩をならべて歩くさえあるに、そのうえ彼女と食事を共にすることができるというので、もう有頂天になっていた。考えてみると、かれはけさから一度も食事をしていないのだ。(中略)「ねえ、小林さん。いつかあなたのお知り合いに、有名なしろうと探偵のかたがあるように伺いましたわね。わたしの思い違いでしょうか」夫人は公園の入り口のやや人足のまばらになったところへ来ると、いきなり紋三のほうを振り向いて、妙なことを尋ねた。

「一寸法師」  大正15年12月8日〜昭和2年2月20日「東京朝日新聞」


謎の一寸法師を見失った小林紋三は電車の中で山野大五郎夫人、百合枝に声をかけられます。そして紋三は夫人に、行方不明の令嬢を見つけ出すために知人の明智小五郎を紹介して欲しいと頼まれるのです。登場人物達はクモの糸にたぐられていくように、じわじわと事件に巻き込まれていきます。かなり怖いです。
新聞小説を意識したせいでしょう、乱歩は尋常でない筆力で読者をぐいぐいと異様な世界に引きずり込んでいきます。切断された腕を抱えた一寸法師が浅草公園を徘徊する冒頭シーン(乱歩帳「弁天山」参照)といい、上野公園の会話から明智登場までの導入といい、スリリングで本当にかっこいいです。
ところで上野公園でいい気分の食事をするなら精養軒もいいですが、最近できた西洋美術館のミュージアムカフェか、国立博物館の敷地内にある法隆寺宝物館のガーデンテラスがお奨めです。新しい店でサービスもしっかりしてますので、ぜひ一度利用してみてください。




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